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2019.6.14
日本酒

入手困難!?福島・会津のプレミア酒『飛露喜』の魅力を徹底解説

いまや誰もが知る幻の日本酒、飛露喜(ひろき)
2000年代の日本酒ブームを代表する銘柄の一つで、定価購入が出来ないこともあるほど、プレミアがついたお酒です。

もはや日本酒界の巨匠ともいえる飛露喜ですが、現在の成功からは想像もできないような、厳しい時代を経験しています。
飛露喜にまつわるストーリーを知れば、もっと飛露喜が好きになる。

今回は飛露喜について、誕生までの秘話やおすすめの銘柄をご紹介します。

飛露喜ってどんなお酒?

福島会津のお酒で、地元でも手に入りにくい飛露喜。醸造元は会津坂下の街中に蔵を構える、廣木酒造です。

そんな廣木酒造は「濃密な透明感のある、存在感のある酒を造りたい」と語っています。
その言葉通り、飛露喜は存在感がありつつ、スッキリとした切れのある日本酒となっています。

香りと甘み、旨味のバランスが良いので、どんな料理にも合う食中酒としても大人気。
中でも和食との相性が良く、味を邪魔せず、双方のいい関係を作り出すのが特徴です。

飛露喜の繊細な味わいを生み出す秘訣は、原料と製法にありました。

廣木酒造は、ワインのテロワールのように、その土地の風土を酒に織り込むこと、「会津のにおいを酒に落とし込むこと」が心がけられているそうです。
そのため、その多くの酒米には地元・会津坂下町や隣接する喜多方市で採れた米を使用しています。

また、原料処理が大切にされていて、すべての商品において限定吸水(吟醸酒など高級酒の製造時に行われる方法で、洗米時などに水を吸水しすぎないよう時間を制限すること)が行われています。
また超低温発酵、低温熟成によって醸されており、これがすっきりした味わいを実現しているのでしょう。

飛露喜を造る廣木酒造はこんな蔵!

先ほども少しお話しましたが、改めて廣木酒造について詳しくご紹介します。

廣木酒造があるのは、福島県の会津坂下町(あいづばんげまち)。
かつては宿場町として栄えていた、福島の会津若松と新潟をつなぐ越後街道沿いにある街です。

古くから米の名産地とされるこの街では、廣木酒造を含め現在3つの蔵元が酒造りをしているんだそう。

また、「飛露喜」醸造元として有名な廣木酒造ですが、地元では「泉川」醸造元として知られています。
泉川は地元優先出荷の日本酒なので、地元の飛露喜販売店では、ほぼ購入することができます。
こちらはいつ飲んでも飲み飽きない味わいが特徴です。

そんな廣木酒造は江戸時代中期から続く老舗の蔵元で、現当主は9代目。
現在では地元のみならず、全国各地にファンを持つ人気の酒蔵になりました。
しかし、一時は廃業を考えるなど、ここまでの道のりは決して平坦ではなかったのです。

ここからは廣木酒造の復活と飛露喜の誕生秘話をご紹介します。

会津坂下町「廣木酒造」の復活劇

いまでこそ誰もが知る酒となった飛露喜ですが、誕生したのは1999年と、割と最近のこと。
それまでは飛露喜を造る「廣木酒造」は、成功から程遠い逆境にありました。酒造はどのようにしてこの逆境を乗り越え、飛露喜を作り出したのでしょう。

●当時の時代背景

「廣木酒造」は、福島県の会津坂下(ばんげ)町の、江戸時代中期から続く老舗です。
飛露喜が誕生する以前の1990年代までは、日本酒といえば”地酒”よりも大手のつくる酒が一般的でした。また、杜氏の高齢化によって日本酒業界全体が危機に瀕していた時代です。

●逆境の始まり

そんな中、廣木酒造に約20年間杜氏を勤めた方がご高齢のため引退。
そこで当初はサラリーマンとして働いていた現当主・健司氏が、先代の父を支えるために日本酒の世界に足を踏み入れたのです。

しかしその約1年後、父が急逝
健司氏にとっては、酒の造り方も流通ルートもわからない中での酒造りで、蔵をたたむことも考えたそうです。

●転機の訪れ

転機は、NHKの取材でした。当時の健司氏は、『杜氏はいない、親父は前年に亡くなった。もう家に火をつけたい』と言って悲壮感が漂っていたそうです。

しかし、番組の放送後東京の地酒専門店の店主から「本気でおいしい酒を造りたいなら応援する」と電話がかかってきました。
はじめに納品したお酒は「箸にも棒にも掛からない」とまで言われたそうですが、そこから健司氏の本気の酒造りが始まります

「うまい酒を作れば必ず売れる」という酒店主の言葉を信じ、「自分が好きな白ワインのような酒」を目指すようになったのです。

1年後、熱処理前の酒を試してみたところ、自分でも「これはうまい」と思えるものができたと語ります

これを日本酒専門店に数本を送ったところ、当初30本も売れればと思っていたのが、結局3千本にまで注文が伸びました

これが「泉川 特別純米 無濾過生原酒」、後の飛露喜(1999年に改名)の始まりです。

かつては“火入れ前”の酒を出荷するという発想はありませんでしたが、酒造りの経験が浅く、業界の常識にとらわれなかった健司氏ならではの行動です。

今ではよく見る『無濾過生原酒』ですが、一般に浸透するきっかけは『飛露喜』であったと言われます。

●飛露喜の飛躍

一瞬にして爆発的な人気を得た飛露喜ですが、健司氏はこれを一過性のものにしないため、そして無濾過生原酒のようなデリケートな酒のみに頼らないため、さまざまな研究と努力を重ねます。

生酒の劣化を防ぐための冷蔵設備を導入し、熱処理をした酒でも「飛露喜」ならではの味を出せるように努力が重ねられました。

洗米から仕込み、搾りまで、従来の設備に次々と手を加え、改良をし、流通方法にもこだわります。
従来のように注文を受けて出荷するのではなく、計画の段階から出荷量、割り当てを決めることで、酒の味を損なうことなく消費者に届けられるようになりました。

こうして飛露喜は全国的に人気のお酒として、今でもそのつきぬけたポジションを維持し続けているのです。

●飛露喜のラベル

飛露喜のラベルは9代目母の手書き。
現在はプリントですが、発売当初はラベルを印刷に回す余裕もなく、1枚1枚手書きで書いていたんだそう。

どこか温かな雰囲気をもつ飛露喜のラベルには、母の愛情が詰まっているからかもしれませんね。

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